<p align="right">公開日:2026-06-27 更新日:2026-06-27</p> 前近代の和歌を勉強していると、よく「これは私的な作品だ」とか反対に「これは公的な場で発表された」なんて解説に出くわすことがある。 しかし、そもそも近現代日本における公私(おおやけ/わたくし)の概念と前近代のそれとが同じとは限らないため、最近ではこの手の解説をつけることに慎重になる人が多いんじゃないかな(と思いたい)。 他方、羊の狭い見識で昨今の人間社会を眺めると、「オリジナルな唯一無二の自己」の表出を求められて苦しんだり[^1]、「行きすぎたアイデンティティ・ポリティクスが[…]「個の内面」に土足で踏み入」[^2]ることで、しんどさを抱えたりしている人が良く見られる。 「個の内面」と「私(わたくし)概念」とを同一のものと考えて良いかという問題はあるけれど、ここでは「個の内面」の重視ないし絶対視を「私(わたくし)領域の拡大」現象であると捉えておきたい。[^3] そうした社会への処方箋になるかは心もとないが、そもそも日本では「公私」とはどのようなものだったのかを知ることは、現代の「個の内面」の問題を幾分か相対化し得ると思う。 そんなこともあり、自分の勉強のためにまとめていたことを公開することにしたのであった。 なお、以下の記述はすべて、**溝口雄三『公と私』、講談社学術文庫、2026**([https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000427299](https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000427299))によっている。 これはかつて出版された『一語の辞典 公私』(三省堂、1996)の再販版。読みやすくなったので興味のある向きはぜひ手にとってみてほしい。 --- くだくだしい論証や例示は煩わしいだろうから、前近代日本における公私について、溝口の結論を最初に示しちゃおう(p.45)。 > 一、おおやけを公然の領域、わたくしを隠然の領域とした二重の領域性によってすみわけられている。 > > 二、おおやけ領域はわたくし領域につねに優越する。 > > 三、わたくし領域にとっておおやけ領域は所与的・先験的であり、その場に従属するものとされている。 > > 四、おおやけ領域は天皇を最高位とし国家を最大の領域とし、その上や外に出ることはない。 つまりは、天皇の勢力が及ぶ範囲の中では常に「公(おおやけ)」は「私(わたくし)」に優越し、「公(おおやけ)」領域の中では「私(わたくし)」が口を挟む余地はない。 しかし、両者は明確に棲み分けられており、「公(おおやけ)」の論理に則っている限り、「私(わたくし)」が「公(おおやけ)」に侵されることもない、ということだね。 公私は二項対立的な関係ではなく、ましてや排除しあう関係でもなく、重層的な「公(おおやけ)」の中に不可侵の「私(わたくし)」があるという構造だったわけだ。 これだけでも、前近代日本は西欧的な個人主義とは全く異なる世界だったということがわかると思う。 こうした概念の典型例として、溝口は世阿弥の謡曲「俊寛」の例をあげている(p.40)。[^4] 俊寛は平安末期の僧で、平家打倒の陰謀を企てた咎で藤原成経(ふじわらのなりつね)・平康頼(たいらのやすより)らとともに鬼界島に流される。 やがて赦免状が下るのだが、俊寛だけの名前だけがない。 俊寛1人を取り残し船が出帆しようとするそのとき、俊寛は使者に向かって > うたてやな**公の私といふ事のあれば**、せめては向ひの地までなりとも。情に乗せて給(た)び給へ。 と訴えるのであった。 現代語訳をするなら、「嘆かわしいことだ、公の私という事があるならば、せめて向かいの地まででも。情で乗せてくれたまえ。」くらいになるだろうか。 赦免状が下るのはおおやけごとであり朝廷の決定であるから、わたくしごとに優越することはなく、口を挟む余地はない。 しかし、使者は俊寛が都にいた頃の知己であり、私的な友情もあった。 だから、公的には二人を連れ戻すだけとして、せめてこっそり自分も船に乗せて向こう岸まででも運んでくれ、というわけだ。 溝口の説明を聞こう(p.40)。 > ここでは公と私とは対立する関係でも排除しあう関係でもない。といって、公と私とは対等な関係ではない。まさに、公の下位に公に従属しつつその領域を許容された私なのである。 「公(おおやけ)」の世界に参加し、協力し、役割を果たしている限り、「私(わたくし)」の領域は侵されることはなかった。 だから、公的な場で言えない本音・都合の悪いわたくし事があるというのは悪いことではなく、むしろ全体の間で隠然と公認されていたのであった。 --- 溝口によれば、こうした日本の「私(わたくし)」は、大戦後3つの方面で強くなったという。 ここでは1つだけ紹介しよう。 それは「内輪事の日常的なわたくし」だという。 溝口の説明は多少古臭さが否めないが、面白いし現代のテクノリバタリアンの問題にも通じるから引いておこう(p.104)。 > この隠私のわたくしが、最も典型的にはセックスの無軌道な開放というかたちで、強められた。驚くべきことには、この無軌道で放埒な開放が、考える葦としての人間の尊厳の発露か人間性の自由であるかのように讃美されてさえいる。 > **この日常的なわたくしの異常な強さは、非社会的あるいは反社会的なわたくしとして、しばしば暴走する。法の規制にかからない以上、何をしても自由、というのがそのわたくしの特徴である**。 溝口は非・反社会的なわたくしをわたくし間で互いに抑制すべきだと述べている。 個羊的にはこの流れはもっと拡大していくと思うし、抑制しろといって抑制されるものでもないだろうから、ぼくはむしろ「公(おおやけ)」領域への積極的な参入ということで解決したいと思う。 ここで冒頭で述べた、「個の内面」の重視・絶対視の問題に戻ろう。 溝口が明らかにした前近代日本の公私概念からぼくが学んでも良いと思うのは、「公(おおやけ)」領域の重視ということかな。 これは別に私を滅してお国や会社等に奉公するのが良いと言っているわけではない。 **羊もニンゲンも「公(おおやけ)」に出ざるを得ない生き物なのだから、「公(おおやけ)」の場ではそれなりの社会的責任や振る舞いが求められるよね、ということを言いたい。** 「公(おおやけ)」のルールやそこでやらなきゃいけないことを守っている限り、そこではあなたの内面なんて知ったこっちゃない。 むろん一切の感情を表出しなくて良いということなどありえない。 その場にふさわしい振る舞いをしていればいいわけで、別に心の中で中指を立てていたっていいわけだ。 だって、隠然たる私的領域は公的領域にしたがっている限り守られるのだから。 もし内面に土足で踏み込んでくるバカがいたら、私的領域の侵害であると自信を持って拒否して良い。 公的領域ではあなた個人なんて実は驚くほどどうでも良い存在だ(あなたは羊の群れから特定の羊を瞬時に見分けられるだろうか!)。 オリジナルな唯一無二のあなたが求められるようになったのって、めっちゃ最近なんだよ。 前近代日本の公私概念は肥大した個のどうでも良さというか、別にそんなの無くても社会は普通に進行していくよ、ということを教えてくれている。 [^1]: 今も行われているかは知らないけど、学校で求められる遠足の感想文はその一例。「楽しかった」か「嫌だった」以外に感想はねーよ。やるなら「おすすめスポットを紹介しよう」みたいに問を工夫する必要があるだろうね。 [^2]: [うえの「常に逃れゆく「問題」を言語ゲームの中で語ることは可能か」(『にほのねぐら』)](https://oryzivora.page/essay/2026/0608) [^3]: 私見では、いわゆる「お気持ち」を重視する傾向(たとえばSNSで●●は不愉快だと己の感情のままに発言・炎上させ対象を追い込んだり、反対に企業の不始末をSNSで告発しないと企業が動いてくれず泣き寝入りせざるを得なかったりすること)は「私(わたくし)」領域が「公(おおやけ)」を超越すると考え、「私(わたくし)」をむやみに絶対化する動き、ないしは「公(おおやけ)」領域を軽視する動きだと思う。詳しくは後述する。なお、「お気持ち」の問題についてはMastodonで度々発言している。たとえば→ https://nokinoki.net/@solonoki/116683659456353170 / https://nokinoki.net/@solonoki/115944291829692177 [^4]: 本文は[国会図書館デジタルアーカイブで見られる](https://dl.ndl.go.jp/pid/876571/1/62)。また、あらすじなどの解説はここがわかりやすかった(→[https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_040.html](https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_040.html))。