**この記事は「**[**Fediverse Advent Calendar 2024**](https://adventar.org/calendars/10051)**」14日目の記事です。**
去る11月、Fediverse上で、はこべさん([@
[email protected]](https://mstdn.chitose.org/@hakobe))がこんな記事をお出しになっていた(→ [https://note.com/hakobe/n/neba7cf634d33](https://note.com/hakobe/n/neba7cf634d33))。
ぼくは『チ。―地球の運動について―』は未読だったのだけど、この記事では『チ。』の内容を織り交ぜながら研究の面白さ・魅力について書いていらして、大変感銘を受けたのだった。
数日後、うえのさん([@
[email protected]](https://fedibird.com/@utan))がはこべさんの上記の記事のアンサー記事を出された(→ https://oryzivora.page/essay/2024/1103 )。
アカデミアと在野との普遍性をめぐる健全な緊張関係が必要ではないか、という主張に深く頷いた。
研究機関で研究をされているはこべさん、在野で精力的に知的活動をされているうえのさん。
アカデミア内外にいるお二人の素晴らしい記事を承け、今博士学位審査論文の審査中であり、これからアカデミアの世界で飯を食っていこうとしているぼくもまた、何か書きたくなった。
Fedivereseアドカレの14日目は、Fedivereseの片隅で「研究ってなんだろう」「研究者は何をすべきだろう」といつも考えているぼくが、Fedivereseで出会ったお二人の記事を承けて改めて思ったことなどをつらつら書いてみようと思う。
# 古典不要論の個人的衝撃
ぼくの専門は日本の古典文学だ。
それも7~8世紀頃の韻文、すなわち、古代の和歌を研究対象としている。具体的には、『万葉集』が対象だ。
和歌……そう、みんなが中学や高校でつまんないなあと思った、「古文」の授業で出てきた、アレが専門だ。
実際、つまんないし実生活に役立たないと思う人が多いのか、2019年には古典は不要であると主張する人と、必要だと主張する人が2vs2でディスカッションを行う[シンポジウム](日本文化学科シンポジウム「古典は本当に必要なのか」を開催しました)まで開催された。[^1]
ぼくはここで、初めて自分の研究対象を「必要のないもの」だと思う人がいる、ということを知った。
実際には、シンポジウムでは[「高校で古典を必修にする必要があるのか」という点が論点になり](https://x.com/_sotanaka/status/1199162321529999360)、古典はこの世からいらないとか、研究すべきではない、なんて主張がされたわけではないのだけど、古典文学は「必要ない」と公言する人がいることに、衝撃を受けた。
はこべさんは
> それ(ノキ注:新しい知見が得られそうなときのワクワク)が**社会的に何の役に立つなどそんなことはどうでも良い**し、そんなことで身を縛られるなど最低最悪でクソであると思う。
とおっしゃったけど、ぼくはこのシンポジウムを承けて、「古典文学の価値とは何か」「現代社会において古典文学はどう役に立つのか」ということをよく考えるようになった。
# すぐ手が届くところに良質な情報とテキストを
2024年は、NHKの大河ドラマで紫式部を主人公とした「光る君へ」が放送されていた。
ぼくはついに未見のまま終わったのだけど、弊TLでも実況をしている人がいてそれなりに注目を集めたらしい。
これを期に『源氏物語』を読んでみよう、紫式部のことをもっと知りたい、という方もいたようだ。
驚いたのは、藤原道長の日記を読んでみたいというコメントを目にしたことだ。
藤原道長は『御堂関白記(みどうかんぱくき)』という日記を残していて、文学研究では当時の貴族の様子を知るのに欠かせない文献となっている。
とはいえ、別に中高の国語の授業で扱ったりしないし(多分)、漢文で書かれているしで、『御堂関白記』なんてまあマイナーだ。
それを読んでみたいという方がいるのだ。
『御堂関白記』を読もうと思ったら、手軽なところでは[角川ビギナーズ・クラシックスがあるし](https://www.kadokawa.co.jp/product/200902000396/)、本格的に読んでみようという向きには[講談社学術文庫もある](https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211427)。
これこそが、文学研究者が社会に役立つということかな、と思った。
人が好奇心を持ったら良質な情報とテキストがすぐ手に取れる環境を用意しておくこと、それが必要なんじゃないかな、と。
人の好奇心は止められない。
**いつ・誰に宿るかわからないその好奇心に極力報いる準備をしておくこと**、それが研究者の役割なのだと思う。
# 軍国主義と『万葉集』
ちょっと重めの話もしよう。
昨今、世界中にナショナリズムが吹き荒れ、経済的にも自国中心主義が蔓延している。
ウクライナでは今も戦火が絶えないし、パレスチナやシリアの問題も予断を許さない。
日本でもナショナリズムや排外主義が蔓延し、12月11日には[防衛力強化との名目で法人税・所得税・たばこ税を増税するなんてニュースが報じられたりもした](https://mainichi.jp/articles/20241211/k00/00m/010/149000c)。
ノーベル平和賞の受賞式のスピーチで田中熙巳さんが[「もう一度繰り返します。原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府はまったくしていないという事実をお知りいただきたいというふうに思います」と強調されたの](https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20241212/5030022745.html)も記憶に新しい。
**要するに、現在、人々の間から戦争を理性的に捉える目が失われつつあるのではないかと思うのだ。**
『万葉集』をはじめとする古典文学作品は、日中戦争・太平洋戦争下、戦意高揚のために政治利用された。
その例は枚挙にいとまがないのだけど、ここでは『万葉集』の大伴家持の歌「陸奥国《むつのくに》に金《くがね》を出《い》だしし詔書を賀す歌一首」(巻18・4094)のワンフレーズ、
> 海|行《ゆ》かば 水漬《みづ》く屍《かばね》 山行かば 草|生《む》す屍 大君の 辺《へ》にこそ死なめ かへりみはせじ
が儀礼曲として用いられた例を紹介したい。
なお、以下の知見は、[小松(小川)靖彦「大伴氏の言立て「海行かば」の成立と戦争下における受容」(『国語と国文学』95–7、2018.7)](https://cir.nii.ac.jp/crid/1520290884457741568)による。
さて、このフレーズは、日中戦争下の1937年(昭和12年)、信時潔《のぶとききよし》によって[曲を与えられ](https://dl.ndl.go.jp/pid/1325408)、戦時下あらゆる場所で流され、歌われた。
ぼくが特に印象に残ったニュース映像も紹介しておこう。学徒出陣の際のニュース映像だ(→ https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300562_00000&chapter=002 )。
11:00くらいから学生の答辞のバックに「海ゆかば」が流れ、そのままニュースは終了する。
このように、戦時下において「海ゆかば」は生と死に関わる場面において用いられ、追悼から鼓舞まで幅広く人々の感情を揺さぶった。
それは、もともとの家持の歌のフレーズが、戦場で一回的に士気を鼓舞するものではなく、「屍」の抽象的なイメージによって「大君」=天皇に仕える「生」の極限的な形を喚起させるものであったからだと考えられる。
つまり、「海行かば……」のフレーズが示す「生」のイメージに、戦争下の人々は「死」への不安と恐れを託し、それを乗り越える術として利用したのだった。
このように、古典文学作品が戦争や政治に利用されるとき、そこには必ず理屈が存在する。
その理屈の回路を理性的に探ること、それが今求められているのではないだろうか。
古典文学作品が戦争や政治に利用されるメカニズムを解明し、次に備えること。そして、同じことが起こりそうなときに、**理性的に**それを批判すること。
これもまた、文学研究者の役割なのだろう。
* * *
ところで、はこべさんの記事には以下の問いかけがあった。
> 現代に置き換えて考えたときに難しいのは、「社会にとって都合の悪い研究」と「陰謀論」の区別が付きづらくなっているところだろう。この点を作者が次作でテーマとしたのもなるほどと頷ける。
> 自分にはどうしたら両者を区別できるのか、現時点で結論は出せない。
> ただ一つ言えるとしたら、その人の**好奇心**ではないかと思う。
> 「誰がどうなってもいいから、正しいことを知りたい」と迷いながらも願う気持ちがある限り、人は科学者でいられるのかもしれない。
これに対して、うえのさんはこう答えた。
> どのような信仰も神学も理論も学知も、それを扱う人間の動機によって陰謀論のような悪にもなる。それは現代の反知性主義がかつての自由さを失って権威化し、陰謀論の支持母体となっている事実からも明らかでしょう。
> しかしそこにいる人間が「正しいことを知りたい、自由に知性を運動させたい、普遍性を語りたい」と願うとき、そこに健全な普遍性を志向する学知が生まれるでしょう。
アカデミアに属する文学研究者が、これまでの話をふまえて蛇足を承知で付け加えるなら、以下のように言いたい。
**常にあらゆる人の好奇心に報いる用意をしておき、そして学知が権力に利用されるメカニズムを解明し、理性的に批判をすること。**
これが研究者の一つの役割なのではないだろうか。
もちろんアカデミアという場そのものが権力性を内包していることは免れないと思うのだけど、それでも、かつてのような殉国・報国の旗印として文学作品が利用されることは繰り返してはならないと思う。
これが、「古典文学研究はどう社会に役立つのか」という問への今のところの答え。
大学入学から11年間、一応ずっと学問をやってきたのだけど、かけた時間に釣り合う答えになっているだろうか。
なお、はこべさんの記事を読んですぐ『チ。』を読んだから『チ。』にも言及したかったけどできなかった。残念!
[^1]: 明星大学のHPから開催の告知記事は消えてしまったようだ…。一応跡地のURLを書いておく。https://www.meisei-u.ac.jp/2019/2019011801.html